この本では全日本空輸(略称は「全日空」)の創業者、美土路昌一を取り上げた。しかし、これは彼の伝記でも全日空の社史の類でもない。志ある1人の男が、どのようなロマンを抱き、それをどのような形で世の中にぶつけて社会に貢献したかを、多くの人に知ってほしかった。この物語を読んでくださった方々が、若者も中年の方々も、男性も女性も、それぞれの活動の場で自らのロマンを育み、その実現のために心の炎を燃やし、行動してくれたら、幸いである。
私が美土路に初めて会ったのは、1966(昭和41)年11月、全日空のYS11型機が松山沖で墜落事故を起こし、それをきっかけに、当時の佐藤栄作首相が運輸省(現在の国土交通省)に岡崎嘉平太・同社社長を辞任させるように命令するという異例の騒動が起きている最中であった。
歳の暮も迫った12月中旬、東京・赤坂のホテルオークラで、首相の事実上の代理人である石坂泰三・経団連(現在の日本経団連)会長と、全日空の利害を代表する美土路(当時は朝日新聞社長)が2時間半にわたって二人きりで解決策を話し合った。石坂は協議の結果に満足げで、報道陣への説明をいっさい美土路に任せた。美土路は約20人の報道陣を正面玄関脇にあったコーヒーショップに誘い、「君等も待ちくたびれたろう。飲み物とケーキでも取りなさい。おごるよ」と笑顔で話しかけた。
150センチほどの小柄の身体を、地味だがしゃれた色合いの背広で包んだ美土路の説明と応答は立て板に水であった。記者が質問すると、間髪を入れずに答える。きつい質問、意地悪い質問にも笑顔を絶やさず、質問が尽きるまで答えた。私は、応答を聞いているうちに、不思議な感覚に捉われた。美土路が質問に対して間髪を入れずに答えると、すべて真実を語っているように聞こえてくるのである。私は98(平成10)年まで約40年間、新聞記者生活を送ったが、その後も、この時のような心地よい記者会見を経験したことはない。しかし、後になって美土路がこの会見で話した内容を点検してみると、中身の約半分は真実ではなかった。
私がそれから4、5回美土路と会ったのは、ほとんど夜分、東京・世田谷区代沢3丁目にあった彼の自宅である。彼は当時、朝日新聞社長、わたしは同社経済部員であったから、経済記者が自分が所属する会社の社長宅に「夜回り」することになる。私はそれが嫌だった。だが、ロンドン帰りの経済部長が「行きたくないなら行かなくてもいいが、朝日の社長だからといって遠慮することはないだろう」というので、勇を鼓して、記者会見から数日後の午後8時半過ぎに訪問した。
美土路は私を笑顔で迎えてくれた。通された書斎の壁の大部分には背の高い書架が設けられ、漢籍で埋められていた。この晩も美土路の舌は滑らかであった。巧みな語り口には親しみもこもっていた。私が朝日新聞の若い記者だったせいかもしれない。話の内容も、この時はほとんど真実であった。
40分ほどたった時、玄関の外で5、6人の話し声と靴音がし、玄関のベルが鳴った。千鶴子夫人が応対に出た後、書斎に顔を出し、美土路に「新聞記者さんが6人ほどいらっしゃいました。どうしましょうか」と告げた。美土路は「私が玄関に行く。そう伝えてくれ」と答えると、私に向って、「他社の連中の相手をしてくるから、20~30分待っていてくれないか。ところで、君は朝日の車で来たと思うが、社旗は外してあるだろうね」といった。
私は「しまった」と思った。当時、新聞社の車は今日と違って、どこへ行くにも大きな社旗をはためかせていた。その晩、私は運転手に社長宅から15メートルほどの道脇に止まっているように指示していたから、他社の記者たちは車についている朝日の社旗を見て、朝日の記者が美土路宅にいることに気づいたに違いない。
「社旗は付けたままです」という私の答えを聞くと、美土路は「役所や会社に行くときには社旗を付けていてもいいが、朝駆け夜回りなどで個人の家を訪問するときは、社旗を取るのが礼儀だよ。相手に迷惑がかかることもあるからね」と、諭すようにいった。
玄関で待ち受けていた他社の記者に対して、美土路は「いやあ、すまん、すまん、こんなところで。書斎にお通しすべきですが、ちょうど今、朝日の重役が重要な案件の報告で来ておるので、お通しできないのです。なんでも答えますから、ここで許してください」と切り出した。応答は約30分続いたが、私はそのすべてを明快に聞くことができた。玄関と書斎は板壁1枚で隔てられているだけだから筒抜けなのである。
数日前のホテルオークラの場合と同様に、質問に即答する美土路に、他社の記者たちは満足し、口々に感謝の言葉を述べて引き揚げていった。書斎に戻った美土路はご機嫌で、「みんな元気で、なかなかいい。それに、戦争中に比べて、記者の表情が明るい。見ていて嬉しくなるよ」と話しながら、夫人を呼んで、「津山の餅と柿を持ってきなさい」と命じた。「津山」とは岡山県津山市のことで、美土路の故郷である。
大きな皿に盛られた海苔を巻いた餅と柿を見て、私は内心、「こんなに食べられないな。残すのもまずいが、どうしたらいいだろう」と心配になった。しかし、それは杞憂であった。「君は30歳そこそこだろう。いくらでも食べられるはずだ。津山から送ってくるものは何でもうまいぞ。大いに食べなさい」と、しきりに勧めながら、遠慮がちの私以上に自らも餅と果物を口に運んだ。私は、玄関に置いてあった、当時小学生であった息子の昭一用の自転車のことを考えながら、「食欲も、80代の人としてはケタはずれ。怪物クラスだ」と感じ入った。
30分ほどたって私が辞去しようとすると、美土路は「慌てることはないよ。もう他社の記者は来ないだろう。君が、今から別の用事があれば別だが」と、強く引き止めた。それからの美土路は専ら若い記者との会話を楽しんでいるようであった。こんな話をしてくれたのを覚えている。
「僕は、図らずも朝日の社長になったが、給料の高いのには驚いたよ。全日空が安過ぎるのかもしれないが、5、6倍あるんじゃないかな。全日空の社長報酬といえば、数年前、下田沖の事故が起きた時、こんなことがあった。
国会に呼ばれて、連日与野党両方の議員から、全日空は利益追求に熱心で、安全性を軽視しているのではないかと、厳しい追及を受けた。社会党(現在の社会民主党)にとりわけ厳しい議員がいて、『役員報酬、特に社長の給料が飛びきり高いというじゃあないか』と大声で言い出して、いくら否定しても収まらない。そこで、僕の後ろに座っていた総務部長に『帳簿を見せてあげなさい』といったんだ。議員はそれを見て、議員報酬よりはるかに低いことがわかって、黙ってしまった」
私が、その後、3、4回、美土路と会ったときの主な話題は、当然のことながら、全日空と航空業界のことであった。だが、取材が終わると、美土路は私が求めなくても、政財界についてさまざまな話をしてくれた。経験が乏しく、知識も少ない若い記者を育ててやろうという気持が働いたのであろう。たとえば、当時の佐藤栄作首相について、このような話をしている。
「佐藤君は政界に入った直後から、なぜか、僕に接近してくるんだ。自民党のリーダーの中では悪い方ではないが、といって、政治をしっかり勉強しているわけではない。そこで、ある時、『中国の三国志を読んだことがあるかね』と聞いたんだ。そうしたら、案の定、『ありません』という答えだ。僕が『日本の宰相を目指す者が三国志も読んでいないのはどういうことか。ぜひ、読みなさい』というと、『早速、取り寄せます』という素直な返事だった。しかし、彼は首相になった今も、まだ読んでいないよ」(笑)
テーマが何であれ、美土路の語り口は滑らかで、説得力に富んでいた。しかし、日本ヘリコプター輸送の創立をめぐる話となり、とりわけ、定期航空のデ・ハビランド・ダブ型機を就航させる苦労話に及ぶと、しどろもどろといってもいいような語調になるのが印象的であった。「美土路は涙ぐんでいるのではないか」と思うときさえあった。美土路は、そんな場合、興民社でともに苦節に耐えた飛行機野郎たちが日本の空に戻った時の喜びを反芻し、噛み締めていたのであろう。
今でも当時の美土路を思い出すと、彼から私に伝わった人間的な温かみが蘇ってくる。
政界、経済界を問わず、リーダーの最大の資質は人間性である。それは、社会状況が厳しいほど輝いて見える。敗戦後の社会における美土路もそのような人物であった。