ザ・コーチ

ザ・コーチ
[著]谷口貴彦
価格:1,365円(税込)

軌道は変えられる

あの人は、一週間前と同じ公園の同じベンチに座って、一週間前と同じように、スケッチブックに色鉛筆を走らせていた。そして、一週間前と同じように、時々犬にビスケットをやっては頭をくしゃくしゃになでていた。その場所は、一週間前と同じように、木漏れ日が差し込んでいた。僕の眼に映るその風景は、懐かしいような、何かが期待できるような、心がわくわくするような、不思議な世界を作り出していた。
僕は、しばらくその景色を遠目に見ていた。何と話しかけて隣のベンチに座っていいのかが、わからなかった。人に話しかけるのが専門である営業マンとしては情けない。
僕が、欅の木に手をついて、あれこれと考えていると、それまでお座りをして、老紳士の顔を見つめていた犬が、僕の存在を感じとり、振り向きながら立ち上がった。それを見た老紳士も、僕のことに気づいて立ち上がると、微笑みながらお辞儀をした。これ以上のチャンスはない。ここで一歩踏み出さなければ、男じゃない。僕は、極力自然な感じを意識して、ベンチに近づいた。しかし、人は自然にしようとすればするほど、不自然になる動物だ。自分でも、手足の運びがぎこちないのがよくわかる。営業マンにとって見た目は重要なのに、また情けなくなった。
「こんにちは、今日はだいぶ暖かいですね。先日はおいしいスープをありがとうございました」
僕は、老紳士に挨拶をした。
「確か先週でしたね。ここであなたにお会いしたのは」
老紳士は、陽に焼けた顔で、最高の微笑みを僕に向けてくれた。
「はい。ちょうど一週間前の火曜日でした」
最初の一言が出てしまえば、緊張はすっ飛んでいく。これも営業マンの特性だ。
「あの日も今日と同じような、穏やかな日でしたね。この季節は、木々が芽吹く前に、たくさんのエネルギーを蓄えている様子が、小さな変化から見て取れて素敵です。ここは桜の名所です。ほら、つぼみもだいぶ膨らんできたでしょう。季節の移り変りはいいですね。春夏秋冬を繰り返しながら、命を一回りずつ大きくしてくれます」
老紳士は、池に覆いかぶさるように枝を伸ばした桜を見上げて言った。
「そうですね」
同感だという意味の言葉を口にしながら、僕は、そんな風に世界を見たことがなかったことに寂しさを感じた。
「お仕事の途中ですか」
老紳士は、ベンチに腰を下ろしつつ、ポットに手をやった。
「はい」
僕は短く答えて、少し遅れて座った。
「よかったらいかがですか、家内のスープ」
「ありがとうございます。これ、最高です。実は、先日このスープをいただいてから、ファミレスのランチスープが、やけに貧相な味だとわかりました。奥さんに伝えてください、僕が飲んだ今までのスープの中で一番だと」
「どうもありがとう。伝えておきます。家内は、人のために料理を作るのが好きなんです。最近は、来客も少なくなったので、腕を振るう機会が少なくなって、寂しがっていましたから、喜びます。ところでどうですか、成績の方は?」
「えっ!?」
「たぶんお仕事は、何かのセールスではないかと思いまして、もしそうなら、今月は忙しいところが多いですからね」
老紳士は、自分にもスープを注ぎながら、池の先に視線を送った。
「どうしてわかるんですか……」
「私も、昔はセールスマンをしていました。そして、セールスに疲れると、休む場所を決めては、さぼってました」
そう言って、老紳士は声をあげて笑った。その笑い声がとっても無邪気で、僕もつられて微笑んだ。
「実は、住宅の営業をしています。バブルの頃は良かったのですが、最近は、なかなか売れなくて大変です」
「そうでしょう。セールスは毎日が勝負ですからね。時々は気休めも必要ですよ」
「これ、ごちそうさまでした」
僕はスープのお礼を言って、カップを老紳士に返した。そして、少し背筋を伸ばして、名刺を差し出した。
「星野雅彦さんですか、いいお名前ですね。おや、この名刺にはプロフィールも書かれてますね。昭和三十四年のお生まれですか、ということは、星野さんは三十六歳くらいですか」
「はい、今年で三十六になります」
「日本がとっても輝きだした時ですね。いい時代でした、昭和三十年代は」
老紳士は、噛みしめるように空を見上げた。空の先に、遠い昔を見ているようだった。
「あの?」
「これは、失礼。私も名乗らないといけないですね。私は、大蔵秀雄といいます。ちょっと前まである会社で働いていましたが、今はリタイアして、週に一、二度、こうして、こいつを連れてここに来ています」
僕は、老紳士の名前を聞いて、どこかで聞いた覚えのある名前だと思ったが、思い出せないでいた。

簡単な自己紹介の後、僕は、最近の業界のことや、営業という仕事がけっこう大変なことなど、他愛もない話をしばらくした。時折話が途切れると、僕はどうしても、大蔵秀雄の名前が気になった。そして、話が老紳士の趣味のバイクのことになった時、僕の記憶が一瞬にして繋がった。
「あっ、あなたはもしかして……大蔵建設の大蔵会長ですか」
僕はそう言うのと同時に、バイクにまたがった姿で、あるビジネス雑誌に載っていた、この人の顔を思い出した。そして、組んでいた足をほどいて、背筋を伸ばした。
老紳士は、否定も肯定もせずに、ただ微笑んでいた。
「すみません。失礼しました。何も知らずに、なれなれしい口をきいてしまいました。申し訳ありません」
人に対しての嗅覚が優れていなければならないはずの営業マンのくせに、油断した自分を悔いた。目の前にいるのは、明らかに自分とは次元の違う人だ。
「そんなにかしこまらないでください。仕事はとっくに引退しましたから、会長と言っても名ばかりです。せっかくお近づきになれたので、ここでは、肩書や経歴はなしにしましょう。その方がずっと親しくなれます」
老紳士は立ち上がると、いつの間にか直立不動になって固まっていた僕に、握手を求めた。
「こんなところでお会いできるなんて、とっても光栄です。大蔵会長のことは、雑誌や本でよく存じ上げています。戦後の苦しい時代に、一代で大蔵建設を作り上げ、今ではいろいろな援助活動をしたり、バイクで旅をしたり、飛行機を操縦したり、とにかく僕の憧れなんです。そんな大蔵会長とお話ができるなんて、夢みたいです」
「星野さん、会長と呼ぶのはやめにしてもらえませんか、どうも仕事をしているようで、堅苦しくなります。どうか大蔵と呼んでください。ここは誰もが平等で、同じように心豊かでいていい場所なのですから」
大蔵さんはそう言って、僕に座るように促し、自分もゆっくりと腰を下ろした。
そんな二人の光景を犬は不思議そうに首を傾けて、交互に見上げた。

「星野さん」
話のきっかけを失っている僕を察して、大蔵さんが声をかけてくれた。
「まだ少し時間はありますか。よかったら、もう少しお話を聞かせてください」
「ええ、大丈夫です。営業は、時間があってないようなものですから」
僕は言った後に後悔した。
「よかった。人から偉い人だとレッテルを貼られるのは、それはそれで結構窮屈なもんです。気楽に話もできません。別に偉い人なんていないのに、レッテルを張ると都合のいいことが多いんでしょうね。困ったものです」
大蔵さんは、本当に一代で大会社を築いてきたのだろうか、と疑いたくなるほど腰が低く、僕に対しての敬意さえ感じられた。きっと、こういう人を本当の意味での“人物”というのだと思った。

時折、春風が、池にさざ波と、光の反射を作り出した。
僕と大蔵さんは、時勢の話題から、それぞれの家族のことや、休日の過ごし方について話をした。他愛もない僕の話に、大蔵さんは、楽しそうに耳を傾けてくれた。そうこうするうちに、いつの間にか僕は、目の前のこの人物に、心を開いていた。
話が一段落ついた時、僕は、もっと大蔵さんのことが知りたくなった。一瞬だけ躊躇したが、僕は、思いきって願いを口にした。
「大蔵さん、ぜひ、大蔵さんが会社を興した頃のお話を聞かせていただけませんか」
大蔵さんは、少し照れたような表情をして、隣の犬の頭をやさしくなでた。そして、視線を目の前の池から、空にゆっくりと移しながら、まるで、昔の映像を懐かしく眺めるかのように話し出した。
僕たちが決して感じることのできない、この国の遠い過去。そこで、ひたすら一生懸命生きてきた人たち──。
大蔵さんは、当時の時代背景と、若かりし頃の自分のことを、話してくれた。
時間がゆっくり流れた。

気がつくと、周りの景色は、夕日を帯びて真っ赤に滲んでいた。
「いやーあ、楽しかったですよ。気軽に話すのは実に心地いい。星野さんに感謝します」
「僕の方こそ、貴重なお話を聞かせていただいて、本当に楽しかったです。もっともっと聞いていたかったです。あの、大蔵さん、また時々ここへお邪魔してもいいですか。もっといろいろと教えてほしいことや、お聞きしたいことがたくさんあります」
「もちろんですよ、星野さん。こちらこそお願いします。こいつは黙っているのは得意ですが、ちょっと物足りないところがあるんです」
そう言って、大蔵さんは、犬の頭をくしゃくしゃになでた。犬は嬉しそうに目を細めた。
この日をきっかけに、毎週火曜日、大蔵さんの“個人授業”が始まった。

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