[新装版]海軍経営者 山本権兵衛

[新装版]海軍経営者 山本権兵衛
[著]千早正隆
価格:1,680円(税込)

「男に愛される男」の条件 水木 楊

一九八〇年台の前半、新聞社のワシントン支局長をつとめていた頃、当時の国防総省日本課長の息子が「トーゴ」という名前であることを、彼自身から教えられ、驚いたことがある。「トーゴ」は自慢の息子で、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。日露戦争における連合艦隊司令長官東郷平八郎の「トーゴ」からとったという。
東郷平八郎は、トラファルガーの海戦でスペインの無敵艦隊を破ったネルソン提督にも並ぶ英雄として世界の海軍将校の間でいまでも有名人だし、海軍関係者でなくとも、例えばフィンランドなどに行けば、トーゴという名にときどきお目にかかることができるという。帝政ロシアの崩壊によってフィンランドは独立を果たした。自国を救ってくれたのが日露海戦の勝利を導いた東郷だというわけだ。
それに比べて山本権兵衛の名の地味さよ。海外ではもとより、日本でもみなが知っている名ではない。山本といえば、真珠湾攻撃作戦を実行した連合艦隊司令長官、山本五十六であろう。その上司でもあった米内光政と並んで、小説の主人公としてもよくとりあげられる。海軍将校はスマートなイメージがあり、戦前、女性に人気があったが、その中でも海軍を代表するのが山本五十六で、花柳界で浮名を流しもした。
しかしながら、日露海戦の勝利に最も貢献した人は誰かと言われれば、満州にあって激戦を勝利に導いた大山巌やその上司である児玉源太郎とともに、山本権兵衛をまず筆頭に挙げなければならない。この本の著者である千早正隆氏は、海軍将校として第二次大戦の激戦地で戦った経験がある。海軍経験者でなければ、気付くことのできぬ細部にまで目配りをした、ユニークな山本権兵衛論を展開する。

明治三十六年、日露海戦直前に、権兵衛は同期で親友でもある日高壮之丞の首を切り、東郷平八郎を常備艦隊司令長官(後に帝国海軍連合艦隊長官)に任命した。日高は権兵衛と同じ薩摩の出身で、青年の頃、上京して共に相撲取りになろうとしたほどの竹馬の友だった。智謀に富む、目から鼻に抜けるような才気のある男である。
かたや、東郷が座っていたポストは、舞鶴鎮守府司令長官。現役の終着駅と言われるB級の、いわば窓際の地位である。派手なところのない、ヌーボーとした男で、彼が抜擢されたとき、多くが首をかしげた。後に、ヨーロッパ旅行中、「どうして東郷を抜擢したのか」との質問を受けたとき、権兵衛は「彼の方がベターだった」と答えたというエピソードが本書でも紹介されている。世界中が東郷こそベストだと思っていたのだから、尋ねた側が驚いた。
東郷は智に走ることのない、石橋を叩いて渡る愚直な男だった。一国の命運を握るポストには、そのような男が相応しいと判断したのである。同時に、東郷の下に人格者の島村速雄を配置し、その島村は天才的な参謀である秋山真之を縦横に使った。東郷―島村―秋山の組み合わせがなければ、日露海戦の勝利はなかったことだろう。
権兵衛最大の仕事は、日本海軍を殆ど一人で近代化し、増強したことだろう。それも、ただの増強ではない。海軍次官から大臣の間に、「建艦十ヵ年計画」をスタートさせ、殆どを実現した。この海軍の予算を軸とする軍事費の占める比率は、総予算の中の四八%。
「大砲かバターか」の選択どころではない。大砲ばかりと言っていいほどの、凄まじい計画だった。計画が発足した時点での、ロシアの軍事力は、日本のそれの数倍はあったとみなされている。
著者は、権兵衛のこの海軍増強がのちの「造船王国・日本」をもたらしたとも指摘している。権兵衛は、建艦する上で、海軍だけでは足りずと見て、民間の力を援用させた。造船は自動車と同じように、アセンブリー産業で、関与する業界の裾野が広い。意図して実施したわけではなかろうが、権兵衛は海軍力だけではなく日本の重工業を発展させる道筋をつけたのだ。
権兵衛はなぜ東郷を抜擢し、強引なほどの予算を編成し、海軍を近代化させることができたのか。彼を明治政府の中で確固とした地位に引き上げた出来事がある。事件と言ってもいい。
それは、海軍省官房主事の時代に行った大リストラだった。同じ薩摩出身の大臣である西郷従道に重用された権兵衛は、わずか四十歳そこそこの年でありながら、なんと九十七人の将官、左官、尉官の首を切り、近代的な訓練を経た若手を登用した。現役の将官の半数に相当する数字である。首を切られた中には、当然のことながら、たくさんの先輩たちがいた。
大臣でも次官でもない、一官房主事がやってのけたのである。何ということをするのか――。轟々たる批判が起きた。新聞で論評されたほどである。
普通なら、彼はここで失脚したことだろう。あるいは、とんでもない首切りをしたのだから、自分も騒動の責任を取り、辞任したかもしれない。だが、彼は平然として生き残った。自分にはやるべきことがあると自認していたからである。
彼を支えたのが大臣の西郷従道だった。西郷隆盛の弟である従道は、兄同様、茫洋とした性格で、細事にこだわらず、懐の大きな男だった。彼の支えがなければ、権兵衛は大リストラを実施できなかったはずだ。
組織の中でのし上がっていく人間には、誰しも一種の狂気に包まれるときがある。冷静に考えれば、到底断行できないことを、やってしまう狂気である。
例えば、手元に十枚のカードを保有していたとしよう。合理的に理性的に考えるなら、その十枚のカード全てを賭けることはしない。十枚のうち六枚か、せいぜい七枚を賭けて、あとは手元に置く。それが処世の計算というものだ。
だが、狂気に包まれた人間は、その十枚を全て賭ける。権兵衛はこのとき、十枚を賭けて突進したのではないか。ひとつ間違えば、失脚の奈落が待っているにもかかわらず。
狂気には、エネルギーが不可欠である。狂気のエネルギーは、四十代半ばまで大抵は尽きる。後に訪れるのは、分別の時代だ。
権兵衛は、この狂気によって、周囲を諦めさせた。「凄い男」という伝説が生まれた。あいつの言うこと、やることには、簡単に口を出せないという空気を醸成することに成功したのだ。
狂気には、大義が必要である。大義なき狂気は、ただの蛮行に過ぎない。権兵衛には大義があった。
いずれ日本はロシアと戦わなければならないと踏んでいた。さもなければ、日本はロシアの属国扱いにされ、下手をすれば滅びるおそれすらある。現にロシアは明治初期、北海道に食指を伸ばし、転向観測所の名目で、拠点を置こうとしたいきさつすらある。明治政府が北海道の開拓に力を入れたのも、そのためである。
ロシアと戦うには、どうしても制海権を取らなければならない。制海権がなければ、満州どころか、朝鮮半島も抑えることはできない。海軍を自由に動かし、制海権を得るため、陸軍の参謀本部下にあった海軍軍令部を、切り離して独立することにも奔走して実現させた。
海軍の大胆な近代化を実現し制海権を築き上げるためには、古い頭の将官たちの首を切り、藩閥に囚われぬ適材適所の人事を断行しなければならない――これが権兵衛の大義だった。
その大義と計画を容認した大物がいる。容認というよりも、強く支持したといってもいい。それが、明治の元勲であり、最大の実力者である山県有朋である。当時枢密院議長であり、海軍整理取調委員長でもあった山県は、権兵衛を目白の自邸(のちの椿山荘)に呼び、事情を聞いた。
権兵衛は、臆することなく、自説を滔滔と述べた。海軍軍令部を陸軍の指揮下から外そうとしている人物だから、不快な存在であるはずだが、山県はその人物と大義を認めた。
山県もまた同じような国際認識をしていたのである。当時の日本には、ロシアと話し合いをして「協商」関係を結ぶべきという主張と、ロシアをあくまでも仮想敵国とみなし、英国と手を組むべきという主張とがあった。前者の主張を展開していたのが、もう一人の大物である伊藤博文だった。

山県は本来、臆病な人間だった。馬関戦争のとき、青年・山県はみなが「うまい、うまい」と言って河豚鍋を突いている間、離れたところで別の魚を食べていた。毒に当たるのが怖かったためである。
臆病な彼は、日本の行く末を考える際、情報を徹底的に集めた。新聞の外電面を毎日くまなく読み、分からないことがあると、副官に直ちに調べさせた。この作業を続ければ、「外遊三年分に匹敵する」と言っていたほどだ。
自費で数人の若者を「留学生」の名目で海外に送り、情報を集めさせた。留学生ではなく外交官の肩書きだったが、彼の命を受け、ロシアに対する諜報活動のみならず、破壊工作まで展開した将官がいる。陸軍大佐・明石元二郎だ。「アカシ一人で一個師団の破壊力があった」とドイツ皇帝に嘆息をつかせるほどの暗躍振りだった。彼に工作費として山県が認めた金額は、計算の方法はいくつかあるが、いまのカネで言うなら、一〇〇億円を越えていたのではないかとすら言われる。
ロシアを仮想敵国として営々として戦力を築き、外にあっては英国と手を握る必要があると山県はかねて考えていたから、目の前に権兵衛が現れて、意見を開陳したとき、「その通り」と膝を打った。以降、山県は権兵衛を陰に陽に助けた節がある。
戦争による勝利に湧く日本国内にあって、二人は速やかに講和を結ぶことを政府首脳に働きかけた。ポーツマス条約でロシアとの和平した後、憤激した民衆が焼き討ちなどの行動に出たことを考えると、和平を説くことは開戦を決意するよりも、ある意味では難しいことだった。
権兵衛には、年の離れた男たちを魅了する何物かが備わっていたのかもしれない。「ジジイ殺しの条件」と言ってもいい。
まず、彼は身辺がきれいだった。カネの匂いはしなかったし、女の噂もなかった。酒タバコをやらず、自ら針仕事をして衣類をつくろうほどだった。老人は、清潔な男を好む。
清潔な日常だけではない。容貌においても、清潔感のある人間を愛でる。権兵衛は、色白で髭が濃く、背筋の通った美丈夫だった。
彼の声が残っているわけではないから、これから先は想像だが、甲高い声ではなく、澄んだバリトンだったのではないか。老人は、口の中でこもったような低い声も、耳に突き刺さるような高音も嫌う。
その声で、展開する論理は、きわめて明快だったに違いない。しかも、落ち着いていた。生まれながら冷静沈着な性質を身につけていたのであろう。
西南戦争が勃発したとき、多くの薩摩出身の若者たちは、西郷南州のところにはせ参じ、ともに戦おうとした。権兵衛も例外ではない。 
目の前に現れた若者に、西郷は説いた。「日本は海軍に頼るところが大だ。帰京して学業を修めよ」。このあたりに、西郷の大きさがある。
「いいえ、戦わせてください」と、それでも多くの若者は懇願したことだろう。だが、権兵衛は一緒に行動をともにした友人が憤激するほどあっさり「分かりました」と答え、軍に戻ったのである。もし、ここで西郷に殉じていたら、極端なことを言えば、日露海戦の勝利は覚束なかったことだろう。
千早氏は権兵衛を「情の人ではなく意の人であった」と評している。情に流されず、意志を貫くという意味だが、同時に、「理の人」でもあったのではないか。南州の言ったことに「理がある」と思ったからこそ学業を続ける道を選んだのだろう。
権兵衛が「殺した」ジジイは、山県だけではない。伊藤博文も彼の言うことに耳を傾けた。第一、海軍大臣の西郷従道をすでに「殺して」いた。
海軍力強化の彼の主張を支えたのは、政府の要人だけではない。当時の先駆的言論人であった福沢諭吉とも会い、意気投合した。そして、福沢は十七歳年上だった。
権兵衛は自らを語ることの少ない人物だった。もちろん自伝はないし、日記も見つからない。本人は揮毫ですら、嫌った。夫人の出自ですら明らかにされていないほどだ。
しかし、千早氏は丁寧に資料を追い点検し、権兵衛という人物を浮き彫りにしていく。その記述には、海軍経験者でなければできぬ分析もある。
例えば、大東亜戦争と日露戦争との比較で、権兵衛が簡単にはロシアには勝てぬと判断し、陸軍や海軍の血気盛んな連中を抑え、十分な戦力が整うまで開戦に賛成しなかったのに対し、昭和の海軍大臣たちはだらしがない。昭和十六年、開戦を決めた御前会議で、及川海軍大臣は気押されたように、一言も発しないで終わった。千早氏は、やミッドウエー海戦やアリューシャン作戦の愚などについても触れており、「彼(権兵衛)のような器量人が昭和の海軍にいたならば、昭和の日本海軍の歴史、ひいては日本の歴史がちがった経路をたどったであろう」との推論を立てている。

権兵衛に見るリーダーの条件とは何か。三つある。
まず第一は、遠くを見る力である。権兵衛はロシアとの戦いが必至であると長期的な視点から考え、そのために何が必要かを冷静に判断した。アフリカの草原に行き、シマウマやムーの群れを見ると、みなが一心に草を食んでいる間、一頭だけすっくと立ち、遠くを見ている雄がいる。ライオンなどの敵が近づいてきていないかを見張っているのである。これがリーダーだ。権兵衛には、生まれながらリーダーとなり得る冷静さがあった。
第二は、自分の考えをみなに伝える言葉の力である。英語で言うなら、グレート・コミュニケーターと言っていい。言葉の力を備えるには、人を動かす理念がなければならない。大義と言ってもいいだろう。同時に、そのことがどうしても必要であるという信念と熱情がなければならない。茫洋としたタイプの多い薩摩にあって、権兵衛は、人を動かす言葉を備えていた。
第三は、評判の悪さに耐える力である。悪い評判には、二種類ある。ひとつは、甘んじて受けてはならない評判で、例えて言えば、「ずるい」「軽薄」「信念がない」「実がない」などだ。甘んじて受けてもいい悪い評判とは、「頑固」「一徹」「強引」「冷たい」などであろう。海軍で大リストラをしたときの権兵衛は、猛烈に評判の悪い男であったに違いない。だが、悪い評判に耐えた。それが、世に言う「実行力」なのである。
そして、最後に付け加えるなら、運の良さが必要だ。もし、名伯楽である西郷従道に見出され重用されなかったら、そしてさしたる戦争のない平時に生まれ育ったら、後の権兵衛はなかった。
しかし、運は日露戦争後の権兵衛には味方しなかった。
その後、権兵衛は二度、総理大臣になる。一回目は大正二年。だがシーメンス事件に巻き込まれ、短期間で辞職せざるをえなくなった。権兵衛自身は潔白であったにもかかわらず。
二回目は大正十二年。だが、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃された虎ノ門事件の責任を取り、このときも短命内閣で終わった。
天は最早、山本を必要とはしていなかったのか。あるいは、大リストラを断行したときのような、苦難を切り抜けてみせるエネルギーを失っていたのか。はてまた、政界という魑魅魍魎が跋扈する面妖な世界に、清潔をもって鳴る彼の人柄は不適当だったのか。
山本権兵衛という星は、日露戦争のときにひと際大きく輝き、そして無窮の闇に消えていったのだ。

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