私の家系は明智光秀の子孫と伝えられています。
本能寺の変に続く山崎の合戦の後、明智残党狩りの手を逃れた於寉丸という光秀の側室の子が京都山城に匿われ、神官の子として育てられました。以来、身を隠すために姓を明田と変えて代々ひっそりと暮らしてきました。
明治10年(1877)頃、私の曾祖父にあたる明田潔が系図などの証拠の品を添えて明智姓への復姓を願い出て、認められました。復姓の理由は「将来愚昧な子孫が明智光秀より連綿と続いた家系を認識せず、明田を本姓と誤ることがあれば祖先の霊に相済まない」とのことだったそうです。この件は当時の報知新聞にも掲載され評判になったと聞いています。
その系図も大正12年(1923)の関東大震災の際に消失し、同時に、伝わっていた明智家の武鑑(家臣の禄高などの台帳)、光秀自筆の「山あひの霧はさながら海にして波かと聞けば松風の音」と書かれた短冊、同じく光秀のものとされる能管(能で使う横笛)も一緒に消失しました。
こうして細ぼそと先祖から引き継いできた光秀の血筋ですが、私の子供の頃の記憶でも「主君を殺した謀反人の子孫」という負い目のような意識が消えませんでした。戦後生まれの私でさえそうでしたから、戦前に育った祖父や父は相当に辛い思いをしたはずです。祖父は学校の教師から授業中に「お前は逆賊の子孫か」と問われ、それ以来「逆賊」があだ名になってしまったそうです。明智姓を返上するようにと泣いて親に迫ったとも聞きました。
強いインパクトを受けたせいで、私は物心ついて以来、当然のこととして光秀や本能寺の変に強い興味とこだわりを抱き続けてきました。そして、歴史の知識を得て、当時の状況などが整理されてくるにしたがって、素朴な疑問がどんどんと膨らんでいきました。
まず、本能寺の変に関する証拠は極めて少なく、謎だらけであること。にもかかわらず、一つのストーリーが間違いのない事実のように定着してしまっていることに疑問を持ちました。謎が多いという証拠に、歴史研究から小説、テレビドラマなどでも本能寺の変は幾度となく採り上げられ、真相を解明しようとする試みが繰り返されてきました。ところが、基本の構図は何ら変わることがありませんでした。
私の疑問はますます深まるばかりで、「本能寺の変の真実を知りたい」という子孫としての執念が私を歴史の謎解きの世界へと駆り立てていきました。何としても自分の手で本当の真実を解明しようと決意したのです。
今日、通説として伝えられている「本能寺の変の顛末」には、解明されていない大きな謎が少なくとも七つあります。この謎をすべて解明できなければ、本能寺の変の真実が明らかにされたことにはならないのです。
まず第一番目の謎は、光秀の謀反の動機です。
証拠や史料が極端に少なく、それこそ謎だらけであるにもかかわらず、光秀は信長に対する永年の個人的怨みと天下取りの野望のために衝動的に本能寺を襲った、という信じがたいストーリーが定着しているのはなぜか、という点です。
昨今、新説も登場していますが、それも光秀の朝廷や足利幕府への忠誠心であったり、秀吉との出世競争に負けた焦り、あるいは誰かにそそのかされた等々、いずれも光秀の私情に謀反の原因を求めています。しかし、そもそも当時の日本を代表する武将が個人的な感情や好き嫌いで衝動的に重要な意思決定をしたのか、どう考えても説得力がありません。
当時の武将は領国の司法・行政・立法を統括する責任者で、現代でいえば日本を代表する企業の経営者、閣僚クラスの政治家、都道府県知事を合わせたような重い責任を負った公的な存在だったはずです。加えて、現代ではほとんど認識されなくなった氏族長でもありました。戦国の世の氏族長の責任は極めて重いものがあったと想像されます。一族郎党はもちろん、子孫の代に至るまで氏族の生き残りと繁栄に重大な責任を負っていたのです。
そうした人間が一族を滅亡に追い込むことになるやもしれない決断をするからには、そうせざるを得ない絶対的な理由があったはずです。そして謀反を起こす以上、絶対成功するという目算を立てていたはずです。それが責任を負った者の意思決定の論理です。
こう確信を持って言えるのは、私が企業経営に多少とも関与し、経営者の論理の一端を理解したからでしょう。その意思決定の論理は、当時の武将の論理とも共通するものです。決して私情によるものではないのです。
次いで二つ目の謎は、なぜ信長はあれほどに無警戒で本能寺にいたかということです。
信長の上洛は本能寺の変、天正10年(1582)6月2日の2日前ですが、わずか2、30人の供回りしか連れてきておらず、丸裸同然の無警戒状態です。特に最も近距離にいた光秀の軍勢に完全に心を許した状態で、光秀は絶対に謀反など起こさないというこの確信はどこから生まれたのでしょうか。
三つ目の謎は、なぜ光秀は本能寺の変をやすやすと成功させ得たかということです。
現実に本能寺の変が首尾よく成功してしまったため、この点は見逃されていますが、冷静に考えて、本能寺を急襲して信長を殺害し、二条城で嫡男信忠を殺し、かつ安土城を一気に占拠するというシナリオを成功させるためには、大きな障害がいくつもあったはずです。
まず、6月2日に信長と信忠が少人数でそこにいなければなりません。そして、安土城にいるはずの織田軍本隊が戦わずに撤退するか、あるいはそこにはいないという条件が揃わなければなりません。本能寺の変前日の6月1日に信長は「6月4日に中国へ出陣する」と、訪れた公家たちに伝えたとされています。その通りだとすれば、織田軍主力は中国出陣に備えて上洛途中か、少なくとも武装を整えて安土城に集結していたはずです。
謀反に失敗は絶対許されません。きわどいタイミングで信長父子を討ち取ることができ、しかも安土城は容易に確保できる、と光秀は読んだからこそ謀反に踏み切ったはずです。光秀はこの確信をどのようにして得たのでしょうか。
四つ目の謎は、信長と同様、家康の安土城訪問とその後の上洛がなぜあれほど無警戒だったのかということです。
本能寺の変の半月ほど前に家康は重臣たちを引き連れて安土城を訪れ、その後、京都、奈良、大坂、堺を見物して回っています。もし、この機会に信長が家康を重臣ともども討てば一挙に徳川家は崩壊したはずです。宿敵・武田を滅ぼした後、信長にとって家康はすでに障害物になっていました。家康自身も、信長にとって自分が邪魔になってきたことは分かっていたはずです。それでいながら、信長の誘いに乗ったのは一体なぜでしょうか。
後年、家康は天下を取った秀吉からたびたび出仕を要請されましたが、決して出向こうとはしませんでした。暗殺を怖れたからです。秀吉が妹を人質(正室)として送り込んできても家康は動きませんでした。そのため母親も送り込んできたので、ようやく家康は大坂城へ出仕したといういきさつがあります。それほど家康は用心深く危機管理に徹する人物だったのです。
五つ目の謎は、光秀の政権維持策です。
襲撃が成功しても、政権が維持できずに短期間で崩壊したのでは謀反の意味がまったくありません。これも光秀の謀反が短時日に潰されてしまったという事実のために、歴史研究でも光秀は無策のまま衝動的に謀反を起こしたと考えられていますが、本当でしょうか。
一番目の謎の動機とも関連しますが、生き残るために起こす謀反である以上、生き残れる策が立たないかぎり踏み切れなかったはずです。光秀には政権を維持するどんな確信があったのでしょうか。
六つ目の謎は、本能寺の変の後、急遽堺から三河に戻った家康の取った行動です。
帰国を果たした家康は、すぐさま織田領となっていた甲斐・信濃に侵攻しました。にもかかわらず、このことは後日、誰からも何の咎めも受けなかったのはなぜなのでしょうか。織田領を攻め取ったということは、織田家に敵対したことに他なりません。なぜ秀吉も織田信雄・信孝兄弟も、この家康の火事場泥棒のような行為を咎めなかったのでしょうか。
そして最後、七つ目の謎は秀吉の「中国大返し」がなぜあれほど成功したかです。
これも現実に成功してしまっているため、歴史の語り草として秀吉を称賛する一つとされていますが、常識的に考えて謎が多すぎます。
当時、秀吉は備中高松で毛利軍と対峙していました。6月3日の夜に本能寺の変の勃発を知った秀吉は直ちに毛利と和睦し、兵を返すや13日には山崎の合戦で光秀軍を討ち破りました。なぜ、かくも素早く膠着状態にあった毛利との和睦を実現できたのか、軍隊移動の常識を超える脅威的なスピードで取って返すことができたのか、そして毛利が信長の死を知って秀吉に追い討ちをかけなかったのはなぜなのでしょうか。
以上の「七つの謎」がすべて一本の線でつながれ、解明できて初めて本能寺の変の真実が明らかになったと言えるのです。それを自分の手でどうしても果たしたい、という強い思いから、私の作業は始まりました。世の多くの本能寺の変研究と同じ轍を踏まないために、私なりの手法で解明を進めることにしました。それは、信憑性のある証拠と論理的な推論とによって犯罪捜査のごとく突き詰めていく手法です。私はこれを「歴史捜査」と名づけました。
解明作業は地道な証拠探しと理詰めの推理の積み重ねでした。裏づけのとれない推理は徹底して排除し、何度でも納得いくまで証拠探しと推理を繰り返しました。
こうした長年の歴史捜査の結果、ついに「七つの謎」のすべてを解明し、本能寺の変の真実の姿を掴むに至りました。その内容はこれからお読みいただくとして、これまで誰も気づかなかった重大な企みが真相のカギを握っていたことが分かりました。そのことが隠され、表に現れることがなかった理由についても、おそらく納得いただけると思います。
ぜひ、通説に囚われることなく虚心坦懐にお読みください。迷宮入りとなった事件の歴史推理ドキュメントとしても、お楽しみいただけるはずです。
そして、400年以上にわたって伝えられてきた歴史を書き変えるという、これから先も続く壮大な取り組みにご支援を賜れれば幸いに存じます。
平成21年3月 明智 憲三郎