わたしたちの生きているこの社会は成熟した社会なのか、それともただの幼稚な社会なのか。ふと考え込んでしまう。
耐震偽装問題から始まって、偽造メール事件、そしてあとをたたない食品偽装問題まで、「偽」とその謝罪がつづいている。報道カメラの前で頭を下げて陳謝 する(させる)、そういう「みそぎ」の儀式がいつ、どんな理由ではじまったのかにも関心はあるが、いまはおく。
その会見で、疑惑を指摘された企業や政党の責任ある地位についているひとたちが、子どもだましのような発言と行動をくりかえす。その光景に多くのひとは 唖然とした。人を食った発言のあと、まわりに責められてこんどは陳謝する。芝居がかっているのはだれにも透けて見える。「子どもの学芸会じゃあるまいし」 とだれもが思う。こんな幼稚なひとがあんな重大な仕事にかかわっていたのか、と。
そして、である。テレビの前であきれ、怒ったひとたちも、ことの重大さをさらに問うこともなく、やがて事件そのものを忘れる……。事件を起こしたひとも事件を糾弾するひとも、どこかとても幼稚に映る。
こんな幼稚なふるまいが通る社会というのはしかし、皮肉にも、成熟しているのかもしれない。とくに何か のわざを身につけることがなくともなんとなく生きてゆける。自活能力がなくても、「一人前」にならなくても、まあそれなりに生きてゆける……。大半のひと がそのように感じながら生きてゆける社会は、セイフティネットがほんとうに完備しているのならの話だが、たぶん成熟しているのだろう。とすれば、「一人 前」にならなくても政治にかかわれる、経営もできる、みんなが幼稚なままでやってゆける、そんな社会こそもっとも成熟した社会であると、苦々しくも認めざ るをえないのだろうか。
働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えるこ と、話しあい取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を、ひとびとはいま社会の 公共的なサーヴィスに委託している。社会システムからサーヴィスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえ ば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。
近ごろの不正の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。ナイーブなまま、思考 停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そし て心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。
「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」。17世紀フランスの思想家、パスカルの言葉はいまも異様なほどリアルだ。
サーヴィス社会はたしかに心地よい。けれども、先にあげた生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもう いちど内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。システム管理者の幼稚さはそのことを知らせたはずだ。「地域の力」といった このところよく耳にする表現も、見えないシステムに生活を委託するのではなく、目に見える相互のサーヴィス(他者に心をくばる、世話をする、面倒をみる) をいつでも交換できるよう配備しておくのが、起こりうる危機を回避するためにはいちばん大事なことだと告げているのだろう。
これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて 「一人前」である。ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。われを忘れてなにかに夢中 になる、かちっとした意味の枠組みに囚われていないぶん世界の微細な変化に深く感応できる、一つのことに集中できないぶん社会が中枢神経としているのとは 異なる時間に浸ることができる、世界が脱臼しているぶん「この世界」とは別のありようにふれることができる、そんな、芸術をはじめとする文化のさまざまな 可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできないのである。
鷲田清一